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Posted by 新矢晋 - 2014.02.04,Tue
腐乱死体とか出るので注意。
頭のおかしいウサミミをただヤマトが見ている話。






つめたいこいびと


 君の姿が見えない時、私は迷うことなくある部屋へ向かう。
「入るぞ」
 地下奥深くの固く閉ざされた扉は私と君にしか開けられず、二重扉の向こうからは吹雪のように冷えきった空気。
 ──そして、常人であれば耐え難いであろう臭い。生命が本能的にかぎ分ける、嫌悪と吐き気をかきたてる臭いだ。
 間接照明だけで照らされた室内は薄暗く、のそりと立ち上がった君はなにか名状しがたい化け物のように見える。
「あれ、大和……もう時間だっけ」
 乱れた衣服を整える君は夢見るような表情で、私を見る目は澱んだ水底の、ああ、ちょうどあの堀のような色をしている。
「ごめんね、俺そろそろ行かないと」
 椅子に座る人影に話しかける君は寂しげに眉を下げ、しかし何事か言葉をかけられたらしくすぐに表情を明るくして笑った。
「心配しないで、へまはしないよ。……いってきます、ロナウド」
 限りない愛情と優しさをもってあの男の名を呼んだ君は幸せそうに目を細めて、その椅子に腰かける人間大の腐肉に口づけた。



 指先を少し動かすだけでその雷が天を裂き、一挙手一投足が群衆を支配する。強者として象徴として敬意や畏れ、信仰すら欲しいままにする君はだが、ほんの僅かだけ正気を手放していた。
 ……栗木ロナウドという男が死んだのはもう数ヶ月も前のことになる。
 何日も死体を手放そうとしなかったのは、君のあの男への執着を思えばそう不自然でもなかった。だが、いい加減に荼毘にふしてはどうかと提案した私を見た君の目は、異様な光を宿していた。

 君にはその死体が、生きたあの男に見えているようだった。

 楽しそうに笑いながら、まるで会話しているように話す君の視線の先にあるのは既に腐敗し始めた死体だというのに。
 いくら言葉を尽くしても君の正気は旅立ったままで、無理に死体を取り上げるよりはそのままにしておいた方が良いと判断された。
 専用の部屋で死体と思うまま戯れているほかは、君はどこもおかしくない一人の優秀な青年なのだ。
 消えない死臭をその身に宿している、ほかは。



「ロナウド、次は誰を殺してほしい?」
 その腐肉に寄り添う君は満たされた表情で、恋するように――実際恋はしているのだろうが――瞳を輝かせている。
 かろうじて人型を保ってはいるがもう頭髪は抜け落ち頬は削げ、密室に保管している為虫の類いはわいていないが床に液体が滴り落ち染みを作っている、それに生命の名残などありはしない。
 そのおぞましい物体に、あの男だったものに、君はいとおしげに触れている。指先が腐汁に濡れるのにも構わずに。
「ね、今度の休みは二人でまったりしようね。……えっ、……あ、うん……俺も、したい……」
 頬を染める君が、その肉と何を話しているかについては大体察しがついている。
 ――この部屋から出る君の服がたまに乱れていることも、この部屋に備え付けられている浴室がたまに使用されているのも、……そういう時は決まって君の瞳が不安定に浮わついて揺れていることの理由も。
 許されざる行為だろう。倫理的にも、衛生面においても、けして誉められた行為ではない。法的にどうのというのではなく、人間の尊厳にもとる行為だ。
 ……だが、君はいつも幸せそうに笑っている。浴室が使われているところをみると、最低限の衛生管理はしているのだろう。感染症の兆候もない。
 君は正気なのだ、後始末に思い至る程度には。
 君は正気なのだ、私が見ている前でその行為を始めたりはしない程度には。
「見せ付けてくれるな」
 腐肉と会話する君に何気なく、少し話を合わせるだけのつもりで言った私に君が目線を寄越す。……その瞬間、寒気がした。
 木のうろのような、ぽっかりと闇が口を開けているような瞳。
 それこそ死人のような目をしたまま、君は不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるの、ロナウドは死んでるんだよ」
 当然のことのように――否、本来それこそが事実なのだが――あっさりと君は言う。私の戸惑いを見てとったのか、柔らかく笑って、
「ロナウドは死んだよ、大和が殺したんじゃないか」
 そう、言う。
 憎悪にしては軽い口振りで、しかし正気にしてはうつろな目で、君は。
「勘違いしないでよ、俺は別に大和が憎いわけじゃない。あれはどう見たって正当防衛だし……多分ロナウドは死ぬ気だった」
 そっと君の手が死体の頭を撫で、ずるりと頭皮ごと抜けた髪が指に絡み付く。ぼんやりとそれを眺めながら、君はどこか平易に言葉を紡ぐ。
「責任の所在でいうなら、俺の方が重い。……ちゃんと隣で手綱を取るべきだったんだ。あんな主張、一旦懐に入ってからぶち壊してやればよかった」
 感情が窺い知れない。君の目は変わらず凪いでいて、飽いたように明後日の方向へ目線をやり、その手から滑り落ちていった髪の塊が床でべしゃりと音をたてるのを眺めもしない。
 その目が不意にじわりと熱を帯びるのを、私はなにも言わずに見ていた。
「ロナウドは死んだ。でもそれが何だって言うんだ、死体になったってロナウドはロナウドだ」
 ――腐っても鯛、という言葉が脳裏をよぎって消えた。そんなかわいらしいものではないが。
 君の瞳が細かく揺れている。その揺れで熱を帯びているのではないかというくらい、細かく、ずっと、揺れている。
 だかその揺れがふとおさまり、ぽとり、と言葉が零れて落ちた。
「……ロナウドだって、俺とずっと一緒にいることを望んでる」
 ――それはどうだろうな。
 私は部屋の隅に視線をやる。数ヵ月前こそはっきりとそこに佇み何かを必死に訴えていた“もの”は、今やわだかまる闇でしかない。変貌したかつての友、自らの死体と行われるおぞましい行為を見せ付けられ続けて想いも人格も削り取られたそれが、何かを望むべくもない。
「ロナウド……」
 あの男の名を呼ぶ君は、熱っぽく囁く君は、黒いもやが足元に絡んでいることにも気付かない。
 かつての君なら、気付いただろう。助けを求めるように――あるいは未だ、寄り添いたがっているように――足を這い上がる闇にきっと気付いて、以前のように慈悲深く手を差し伸べたのだろう。
 中身を失った腐れた肉の器に執着する君は、21グラムの闇に気付かない。
「俺からロナウドを奪う権利は誰にもない。死のうが腐ろうが蛆がわこうが骨になろうが、ロナウドはロナウドだ。俺の、愛した、ロナウドだ」
 腰を折り、そっと腐肉に口付けた君の足元で、闇がその足に蹴散らされて、

 ―― ! …… ! !!

 男とも女ともつかない甲高い絶叫。それを断末魔とし、部屋の隅から君の元まで伸びていたそれは弾けて消えた。常人の精神力では今まで留まれていたのが奇跡的なのだ、……あれは確かに君を大事に想っていたのかもしれない。
 だが本人がいなくなった以上、その肉塊をどう扱うかは君の自由だ。
 感情の抜け落ちた、目だけが爛々と光っている君。腐れた膝に頭を預け、うっとりと溜め息を吐く。
「ロナウド、ロナウド……これからは俺が守ってあげるから、ずっと、ずっとずっと俺が……」
 永遠に君は死体を愛で続けるのだろうか。いずれは諦めるのか、あるいは彼岸へ向かうのか。
 恋人に甘えるような所作で背を丸めた君は、いつしか泣いている。身を裂く苦痛と愛しさと悲しみの間で泣いている。
「ロナウド……だいじょうぶ、だから、俺たち……だいじょうぶ、」
 何度も呟く言葉は君自身を蝕む呪詛だ。あれを忘れることも受け入れることも出来ずに腐肉ヘすがる君は、いっそ狂ってしまった方が楽になれるだろう。

 ――ああ、君は正気なのだ。悲しいくらい正気で、正気のまま狂っているのだ。


《終》

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