Posted by 新矢晋 - 2011.10.28,Fri
「父と名乗る男」に至るまでの話。
子供が商人に誑かされたのか、あるいは、商人が子供に絆されたのか。
子供が商人に誑かされたのか、あるいは、商人が子供に絆されたのか。
偽物の恋のはなし
「あれ、レハト。こんなとこでどうしたの、お勉強?
黴臭い本なんかより俺の方が役に立つって、ねね、広間でお茶しながらお話しよー」
図書室にて、馴染みの商人に声をかけられた子供は困ったように眉を下げた。いつもなら喜んで彼についていく所だが、今日は少しばかり事情が違ったのだ。
胸元に本を抱えたまま悩んでいる子供の様子に何か感じたのか、その抱える本の題名に視線を向ける男。
――「アネキウスの『あ』」。文字の読み書きの教本だ。
「ふうん、レハトってまだ読み書き怪しい感じ?
じゃあ俺が教えたげるよ、ね、ね!」
半ば強引に椅子に座らされ男から読み書きを教わる事になった子供は、最初こそ戸惑っていたがすぐに生徒の顔になる。言い出しただけあって男はそれなりに教えるのが上手く、一人で勉強するよりははるかに効率的だった。
「レハトは飲み込みが早いから、俺も教えがいがあるよ」
粗方基礎を触り終えた後、男はそう言いながら子供の頭を撫で、飴玉を一つその手に握らせてから立ち上がった。
「じゃあ俺はそろそろお仕事しなきゃ。お勉強頑張ってね」
最後にもう一度頭を撫でられた子供は、照れ臭そうに笑って頷き、ばいばいと手を振った。
――ばいばい、と手を振り返した男の思惑など、何も知らずに。
次の市の日、一見がらくたのような品物を並べて露店の準備をしていた男は、中庭の入り口からかけてくる子供の姿を認めて唇を歪めた。獲物をとらえた肉食獣に似た、およそ商人が浮かべるに相応しくない表情だ。
ただその表情はすぐに塗り替えられて、子供が男の露店までやってきた頃には軽薄な笑みが出迎える。
「いらっしゃいレハト、今日も会えて嬉しいよ」
わしゃわしゃと髪を撫でられて、子供は頬を染め屈託なく笑う。手招きされれば素直に男の隣へと座り込み、品物についての突っ込みや最近あった面白い事を懸命に話し出す。
子供の話はお世辞にも上手くはないが、男は気長に耳を傾け的確な相槌を打っては、にこにこと笑いながら子供を見ていた。
「……そっか、レハトもお城に馴染んできたかー。よかったよかった」
話が一段落したところで、男は内緒話でもするように子供の肩を引き寄せその耳元に唇を寄せる。
「俺と会った頃、レハトってお城に居場所が無い感じだったでしょ。
まあ、だから俺みたいなのと仲良くしてくれたわけだけど」
何かを言いかけた子供の唇を人差し指で塞いで、にんまりと笑う男。
「今はお城に慣れてきて他にも知り合いは居るだろうに、俺とまだ仲良くしてくれてるって事は……ちょっとは俺の事、好きだよね?」
……子供は一瞬口ごもってから、ふにゃ、と誤魔化すように笑った。その態度を見やる男の目の底で光るものに、気付きもしない。
はぐらかさないでよー、などとひとしきり子供を構い纏わりついた後、男は名残惜しそうな素振りを見せながら追求を諦めた。
「ま、いっか。レハトが大人になるまで時間はたっぷりあるもんねー」
――大人になったら教えてね、と耳元で囁く声は明け透けなくらいに熱っぽい。
慌てて子供は立ち上がると男から距離を取り、そんな子供の様子を見て男は笑う。もう帰るのー?などと余裕たっぷりだ。
顔を真っ赤にしたまま立ち去りかけた子供は、しかし数歩進んでから引き返してくる。そして、不思議そうにしている男に、何かを差し出した。
「……え、これもしかしてラブレター?」
差し出されたのは一通の手紙で、男はわざとらしいくらいに喜んでそれを受け取る。
子供は何も言わずに走り去り、それをにやにやしながら見送ってから、男は几帳面に荷物の中へ手紙を仕舞い込み店へと戻った。
……そして、市がお開きになり王城を後にした男は、街中の水路にかかる橋の上で手紙を開いた。
とっずへ
いつも いろんなおはなし きかせてくれて ありがとう
いつも あたまなでてくれて ありがとう
いつも やさしくしてくれて ありがとう
れはと
まだ文字を書くのに慣れていない、筆圧にも乱れが見える文字。ところどころ綴り間違いまである、典型的な就学したばかりの子供の書いたものだ。
文面を三回ほど読み直し、紙の表裏を確認してから男は溜め息を吐いた。
――ラブレターと呼ぶのもおこがましい、お子様の戯れだ。
あの子供が男に寄せる無邪気な好意が、胸を焦がす思慕に変わるまで、あとどれくらいだろう。……男の読みでは、既に時間の問題だった。
男は無表情に手紙を眺め、ほんの一瞬だけ迷うような素振りを見せた後、手紙を細かく引き裂き始めた。完全に復元が不可能なくらいばらばらにして、その細切れになった元手紙を水路へ流す。
流れに飲まれ、くるくると回る紙片はまるで、……。
――男はしばらく水面を眺めていたが、何かを振り払うように頭を振ってから鞄を背負い直し、今日の宿へと足を向けた。
男の予想通り、それから一月も経たない内に子供は男へと愛の告白をした。
「……じゃあさ、逃げちゃおうか」
どうしたってその言葉は白々しく響くのに、幼い胸いっぱいに男への思慕と不安とを抱いた子供はその白々しさにさえ気付かずにじっと男を見詰めていた。
そんな子供の頬に手を当て顔を覗き込むと、男は真剣な声で囁く。
「俺とレハトじゃ身分が違う。幸せな結末以外認めないから、俺」
――ここから逃げよう。
ゆっくりと頷いた子供の額に口付けて、男は愛してると囁いた。
次の市の日、呆気なく王城からの脱出は成功した。愛する子供の手を引いている筈の男の表情が強張っているのは、緊張か、あるいは――
「どうしてもお前に会いたいって人が居るから、そっちに寄ろう」
街外れの邸宅へ連れ込まれ、見知らぬ貴族と引き合わされてなお、子供の目は濁る事なく真っ直ぐ前を向いていた。
だが。
貴族が子供の母親について語り、あろう事か自らこそが父親だと言い始めた途端、くしゃりとその表情が歪んだ。
「違う!」
叫ぶような拒絶。いやいやと頭を振る子供に貴族は貼り付けた笑みを引っ込め、後ろに控えていた従者たちが剣を構え距離を詰めてくる。
じりじりと後ずさりながら、子供は背後の男を見上げた。縋るような、しかし諦めと不安の色濃い瞳。
男は無表情に場を眺めていたが、ついに従者たちが剣の間合いに入り込もうとしたその瞬間、舌打ちをした。
じゃらり、と金属の音がして。
――そして彼の恋は、本物になる。
《幕》
「あれ、レハト。こんなとこでどうしたの、お勉強?
黴臭い本なんかより俺の方が役に立つって、ねね、広間でお茶しながらお話しよー」
図書室にて、馴染みの商人に声をかけられた子供は困ったように眉を下げた。いつもなら喜んで彼についていく所だが、今日は少しばかり事情が違ったのだ。
胸元に本を抱えたまま悩んでいる子供の様子に何か感じたのか、その抱える本の題名に視線を向ける男。
――「アネキウスの『あ』」。文字の読み書きの教本だ。
「ふうん、レハトってまだ読み書き怪しい感じ?
じゃあ俺が教えたげるよ、ね、ね!」
半ば強引に椅子に座らされ男から読み書きを教わる事になった子供は、最初こそ戸惑っていたがすぐに生徒の顔になる。言い出しただけあって男はそれなりに教えるのが上手く、一人で勉強するよりははるかに効率的だった。
「レハトは飲み込みが早いから、俺も教えがいがあるよ」
粗方基礎を触り終えた後、男はそう言いながら子供の頭を撫で、飴玉を一つその手に握らせてから立ち上がった。
「じゃあ俺はそろそろお仕事しなきゃ。お勉強頑張ってね」
最後にもう一度頭を撫でられた子供は、照れ臭そうに笑って頷き、ばいばいと手を振った。
――ばいばい、と手を振り返した男の思惑など、何も知らずに。
次の市の日、一見がらくたのような品物を並べて露店の準備をしていた男は、中庭の入り口からかけてくる子供の姿を認めて唇を歪めた。獲物をとらえた肉食獣に似た、およそ商人が浮かべるに相応しくない表情だ。
ただその表情はすぐに塗り替えられて、子供が男の露店までやってきた頃には軽薄な笑みが出迎える。
「いらっしゃいレハト、今日も会えて嬉しいよ」
わしゃわしゃと髪を撫でられて、子供は頬を染め屈託なく笑う。手招きされれば素直に男の隣へと座り込み、品物についての突っ込みや最近あった面白い事を懸命に話し出す。
子供の話はお世辞にも上手くはないが、男は気長に耳を傾け的確な相槌を打っては、にこにこと笑いながら子供を見ていた。
「……そっか、レハトもお城に馴染んできたかー。よかったよかった」
話が一段落したところで、男は内緒話でもするように子供の肩を引き寄せその耳元に唇を寄せる。
「俺と会った頃、レハトってお城に居場所が無い感じだったでしょ。
まあ、だから俺みたいなのと仲良くしてくれたわけだけど」
何かを言いかけた子供の唇を人差し指で塞いで、にんまりと笑う男。
「今はお城に慣れてきて他にも知り合いは居るだろうに、俺とまだ仲良くしてくれてるって事は……ちょっとは俺の事、好きだよね?」
……子供は一瞬口ごもってから、ふにゃ、と誤魔化すように笑った。その態度を見やる男の目の底で光るものに、気付きもしない。
はぐらかさないでよー、などとひとしきり子供を構い纏わりついた後、男は名残惜しそうな素振りを見せながら追求を諦めた。
「ま、いっか。レハトが大人になるまで時間はたっぷりあるもんねー」
――大人になったら教えてね、と耳元で囁く声は明け透けなくらいに熱っぽい。
慌てて子供は立ち上がると男から距離を取り、そんな子供の様子を見て男は笑う。もう帰るのー?などと余裕たっぷりだ。
顔を真っ赤にしたまま立ち去りかけた子供は、しかし数歩進んでから引き返してくる。そして、不思議そうにしている男に、何かを差し出した。
「……え、これもしかしてラブレター?」
差し出されたのは一通の手紙で、男はわざとらしいくらいに喜んでそれを受け取る。
子供は何も言わずに走り去り、それをにやにやしながら見送ってから、男は几帳面に荷物の中へ手紙を仕舞い込み店へと戻った。
……そして、市がお開きになり王城を後にした男は、街中の水路にかかる橋の上で手紙を開いた。
とっずへ
いつも いろんなおはなし きかせてくれて ありがとう
いつも あたまなでてくれて ありがとう
いつも やさしくしてくれて ありがとう
れはと
まだ文字を書くのに慣れていない、筆圧にも乱れが見える文字。ところどころ綴り間違いまである、典型的な就学したばかりの子供の書いたものだ。
文面を三回ほど読み直し、紙の表裏を確認してから男は溜め息を吐いた。
――ラブレターと呼ぶのもおこがましい、お子様の戯れだ。
あの子供が男に寄せる無邪気な好意が、胸を焦がす思慕に変わるまで、あとどれくらいだろう。……男の読みでは、既に時間の問題だった。
男は無表情に手紙を眺め、ほんの一瞬だけ迷うような素振りを見せた後、手紙を細かく引き裂き始めた。完全に復元が不可能なくらいばらばらにして、その細切れになった元手紙を水路へ流す。
流れに飲まれ、くるくると回る紙片はまるで、……。
――男はしばらく水面を眺めていたが、何かを振り払うように頭を振ってから鞄を背負い直し、今日の宿へと足を向けた。
男の予想通り、それから一月も経たない内に子供は男へと愛の告白をした。
「……じゃあさ、逃げちゃおうか」
どうしたってその言葉は白々しく響くのに、幼い胸いっぱいに男への思慕と不安とを抱いた子供はその白々しさにさえ気付かずにじっと男を見詰めていた。
そんな子供の頬に手を当て顔を覗き込むと、男は真剣な声で囁く。
「俺とレハトじゃ身分が違う。幸せな結末以外認めないから、俺」
――ここから逃げよう。
ゆっくりと頷いた子供の額に口付けて、男は愛してると囁いた。
次の市の日、呆気なく王城からの脱出は成功した。愛する子供の手を引いている筈の男の表情が強張っているのは、緊張か、あるいは――
「どうしてもお前に会いたいって人が居るから、そっちに寄ろう」
街外れの邸宅へ連れ込まれ、見知らぬ貴族と引き合わされてなお、子供の目は濁る事なく真っ直ぐ前を向いていた。
だが。
貴族が子供の母親について語り、あろう事か自らこそが父親だと言い始めた途端、くしゃりとその表情が歪んだ。
「違う!」
叫ぶような拒絶。いやいやと頭を振る子供に貴族は貼り付けた笑みを引っ込め、後ろに控えていた従者たちが剣を構え距離を詰めてくる。
じりじりと後ずさりながら、子供は背後の男を見上げた。縋るような、しかし諦めと不安の色濃い瞳。
男は無表情に場を眺めていたが、ついに従者たちが剣の間合いに入り込もうとしたその瞬間、舌打ちをした。
じゃらり、と金属の音がして。
――そして彼の恋は、本物になる。
《幕》
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