Posted by 新矢晋 - 2013.03.07,Thu
湖の乙女はその英雄に剣を与えるか
セプテントリオン。星の名を冠する最終兵器、人類を滅ぼす侵略者。
ドゥべ、メラク、フェクダ、メグレズ、アリオト……既に五体が倒れ、奴らが本当に北斗七星になぞらえられているならあと二体ということになるが、あと二体を乗り越えた時俺たちはどうなるのだろう。
世界は、どうなってしまうんだろう。
「なんか、悪魔とは違う変なやつがいて……」
避難所を駆け回っている時に仲間の一人からそう報告を受けて、俺の脳裏をよぎったのはセプテントリオンの存在だった。
慌てて現場へ向かった俺は、物陰から遠巻きにそれを見張っている面々の横から目を凝らす。
「……ミザール?」
携帯に表示されている名からして、恐らくあれもドゥべやメグレズと同じくセプテントリオンなのだろう。
紫色の球体が連なった、どこか愛嬌のあるフォルム。アリオトの巨大さやメラクの禍々しさに比べれば脅威は感じられず、遠巻きに見ていた皆も少しずつ近付いてくる。
「なんやこいつ……俺らでも倒せるんじゃ……」
悪魔使いの一人が携帯を構え火炎魔法を叩き込む。ばちん、と呆気なく弾けたミザールは、その次の瞬間にはまた凝り固まり……一回り小さな二体のミザールがそこにいた。
「な、分裂した?!」
慌てて逃げ戻った彼をよそに、ミザールの体がぶるぶると震え始め、ぶわりと一回り大きく成長する。分裂する前と変わらない大きさだ。
「なんだよあれ……」
平和にふよふよとうろつく紫色の球体。だがそれは、徐々に数を増しているように見えた。
なんだか嫌な予感がして冷や汗の滲む手を握り締めていた俺は、不意に鳴った携帯に迫さんの名前が表示されているのを見て、人気の無い場所に移動してから通話ボタンを押した。
「……神宮寺、悪い報せだ。次のセプテントリオンが出現した」
「それって、ミザール……ですか」
「……そちらにも出たか。あれはどうやら攻撃されると分裂し、その分裂した個体もすぐ元の大きさに成長するばかりか、成熟した個体は攻撃されなくとも分裂するようだ」
……予感は確信に変わった。黙りこんだ俺を気遣ったのか、迫さんは息継ぎをして間を置いてから、深刻な、囁くような声で続ける。
「計算では、奴らが日本を埋め尽くすまでそう時間は無い。こちらでも対策は考えているが……取り敢えずは無闇に攻撃せず、静観するしかない状況だ」
「……そう、ですか」
ようやく絞り出せたのは気のきかない一言で、俺は迫さんと話しながらもこれからどうするか必死に考えていた。ジプスと違って俺たちは指揮系統もはっきりしないし、悪魔使いの質も低い。もしここへセプテントリオンの攻撃が向けば、甚大な被害が出るだろう事は想像に難くなかった。
「……気を付けてな、神宮寺」
気遣わしげな声を最後にいつの間にか通話は終了していて、俺はぼんやりと空を見上げた。まだ、空は青かった。
――そしてまた日が暮れる。ミザールの見張りに人手を割いているせいで若干手が足りず、夜営の準備に駆け回っていた俺のポケットで携帯が鳴った。……「迫真琴」の表示に慌てて通話ボタンを押した俺の耳に飛び込んできたのは、冷静さの下に焦燥を隠した声。
「神宮寺、そちらへ新田が行っていないか?」
「いえ、来てませんけど……何かあったんですか?」
迫さんに事情を――ミザールをなんとかする儀式に新田さんが必要で、その儀式には命の危険がある――聞いた俺は、すぐに新田さんを探しに行こうと走り出しかけたが、迷いが足を鈍らせる。
この避難所のすぐ近くにまでミザールはうろついていて、今後何が起こるかわからない。でも多分新田さんは東京にいて、探しに行くなら俺はここから離れなければならない。
――離れている間に何かあったら?
新田さんは大事な友人だ。でもここにいる皆だって大事だ。俺には人間に優先順位をつける事なんて出来なくて、でも、ここで迷い続けてたってなんにもならないのもわかってて。
「ん、どうした湖宵くん」
うろうろと同じ場所を歩き回る俺に、怪訝そうにロナウドが声をかけてきた。手には毛布を何枚か持っている、子供や老人に配るのだろう。
俺はロナウドに事情を説明した。焦りのせいで要領を得ない俺の話をロナウドは真剣に聞いてくれて、それから明るく笑った。
「よくわからないが、その子は湖宵くんの友達なんだろう?行ってくるといい!」
「でも、」
ロナウドは毛布を地面に置くと、迷う俺の頭を両手で包みわしわしと髪をかき混ぜた。それから少し屈んで俺の顔を覗き込む。
「君は俺の友人だ、君に何かあれば俺は絶対に助けに行く。君もそうだろう、友達が困っているから助けに行くんだろう?迷う必要は無い、ここは俺に任せろ!」
真っ直ぐに俺の目を見るロナウドの目は自信に満ちていて、俺を信じてくれてもいて、迷っていた俺の背を押してくれる。
「……うん、行ってくる」
「ああ!」
頑張れ、と投げられた言葉を背に俺は駆け出した。
ターミナルを使い東京へ向かった俺は、思いの外早く新田さんを見付けられた。
街外れに立ち尽くす新田さんは遠目にもわかるくらい顔色が悪くて、俺は少し迷いながら声をかけた。
「新田さん……?」
振り返った彼女がなんだか消えてしまいそうに見えて、俺は目を擦る。……縁起でもない。新田さんは消えたりなんかしない。
「神宮寺くん……」
新田さんは困ったように笑って、そして俺から目を逸らした。
「探しにきてくれたんだ、ありがとう。……駄目だね、私」
「いや、俺、事情聞いたけど……その、動揺するのも仕方ないよ」
頭をフル回転させて、新田さんを追い詰めないように、でも立ち直ってもらえるように言葉を選ぶ。
……新田さんに無理強いはしたくないけど、新田さんが決意してくれないと、あの無限に増殖する化け物に日本が覆いつくされるのも時間の問題だ。だからこうして彼女を慰めるのだって偽善で、下心しかなくて、それを新田さんも多分わかってる。
「……私がやらなきゃいけないの、わかってるんだけど。……怖くて」
俯く新田さんのスカートを握り締める手が震えているのに気付いて、俺は思わずその手を掴んだ。
「怖くていいんだ。俺だって死ぬのは嫌だし、怖い」
新田さんの手を握り締める。今この瞬間だけは、下心なんて無かった。
「今まで何回も死にかけて、怖くて、自分が死ぬより友達が死ぬ方がもっと怖くて」
言い募る言葉は新田さんを説得するというよりも、俺自身に言い聞かせるようで。
「でも俺たち、回避してきただろ?大地も、和久井も、死ななかった」
だから、新田さんも死なない。死んだりしない。死なせない!
「俺は皆を守らなきゃいけなくて、新田さんの隣にはいられないけど、俺も頑張るから!新田さんのこと信じて、絶対に諦めないで頑張るから!」
感情ばかりが昂って交渉もへったくれもない俺の言葉に、でも、新田さんは頷いてくれた。
「……ありがとう、神宮寺くん。私、頑張ってみる。やれるだけやらないと、きっと後悔するよね」
それから新田さんの視線が下がって、我に返った俺は慌てて手を離す。くすくすと笑った新田さんは、もう消えてしまいそうになんて見えなかった。
小走りに皆の元へ向かう新田さんの背を見送って一息ついた俺は、鳴り響いた携帯の呼び出し音にびくりと肩を跳ねさせる。通話ボタンを押した瞬間響く声。
「湖宵!まじヤバい!ミザールが動き出して、すごい数で!」
――血の気の引く音がした。
急いで名古屋に戻った俺の目に飛び込んできたのは、そこらじゅうをうろつくミザールたちだった。そいつらを振り切りながらあのイベントホールへ向かった俺は、その惨状に愕然とした。
ミザール、ミザール、ミザールの大群。それを必死で押し留める悪魔使いたち。皆傷だらけで、紫の津波が人々を押し流すのも時間の問題に思えた。
「……無理だ、こんなのどうしようもない」
「逃げた方がいいんじゃ……」
「逃げるったってどこに逃げるんだよ!」
悲鳴に近い叫び。皆に絶望が広がってゆく。逃げ出しかけて背後から攻撃を受け自滅したり、自棄になって滅茶苦茶に攻撃してどんどんミザールを分裂させてしまう人々。
駄目だ。このままじゃ駄目だ。皆がバラバラじゃあ駄目なんだ、一つにならなきゃ、でもどうやって?
「……諦めるな!」
気付けば俺は瓦礫の上にかけ上がって叫んでいた。
「諦めたらみんな死んじゃうんだぞ?!友達も家族も恋人も、こんなわけのわからない化け物に殺される!そんなの嫌だろ!俺は嫌だ!!!」
俺はただの高校生――しかも「元」がつく――で、指揮なんて当然した事がないし、何を言えば皆を奮い立たせられるかもわからない。
ただ必死で、必死で、俺は。
――英雄とは存在ではなく行為である。
「俺たちはヒーローだ、一人一人が誰かのヒーローだ!諦めるヒーローなんていない!だから……」
――英雄はおらず、英雄は英雄的行為によって英雄となる。
俺は、俺たちは、絶対に諦めない!
――私は英雄を祝ぐ。
俺の中で何かが灯る。沢山の目に見られながら、絶望の群れを前にしながら、……本当は折れそうで逃げ出したくて仕方ない心を隠しながら、俺は叫ぶ。
――私は英雄に剣を与える。
「立て!大事な誰かのために!立って戦うんだ、大事な誰かのところへ帰るために!」
――さあ、私の名を「思い出して」!
「英雄に剣を、ヴィヴィアン!」
……清浄な水の匂い。薄絹をふわりと翻し、美しくたおやかな乙女が舞い降りる。英雄に剣を与える湖の乙女は、柔らかく微笑むとそのかいなを宙へ差し伸べた。
一振りの剣が空より降りる。その剣から溢れた光が人々へ降り注ぎ、傷を癒し、絶望を癒し、心を奮い立たせる。
俺もそれに合わせて治癒魔法を発動させ、皆の傷を塞ぐ。夜を照らす月のような光が皆を包み込み、立ち尽くす皆の表情が変わっていく。
……いつの間にか俺の隣に立っていたロナウドが皆に指示を飛ばす。
「近くの奴と三、四人でチームを組め!一体に攻撃を集中させて、確実に潰していくんだ!」
絶望に凍り付き始めていた皆の目に炎が灯る。拳を握り締め、前を向いて。
「ここで押し止めれば、新田さんが、皆が頑張ってくれてるからきっと……!」
自分に言い聞かせるように俺が呟いたその時、
お ん。
何かの哭く声、ごう、と空が鳴る。
――竜だ。巨大な竜が、空を引き裂きながら真っ直ぐにミザールの群れへと食らい付いた。呆然と見守る俺たちの前で、竜がそのあぎとで紫を咀嚼し飲み込んでいく。
一匹残さず食らい尽くしてから、現れた時と同じように嵐を巻き起こし飛び去る竜。不意に携帯が鳴って放心したまま出ると、迫さんだった。
「神宮寺、そちらは無事か?今儀式が無事に終わったから、そちらにも龍脈の竜が向かうと思うが……」
「あ、うん、それっぽいのもう来た……、それより新田さんは?!」
慌てて電話口に食らい付く俺の耳に届いたのは、少しかすれた声。
「……神宮寺、くん?……私、新田です……けほ、ん、私なら大丈夫だよ」
弱々しくはあるけどそれは確かに新田さんの声で、俺は一気に脱力して座り込んだ。まだ辛そうな新田さんとは早々に会話を切り上げて、迫さんと一言二言現状確認をしてから携帯を切った俺に、隣に立っていたロナウドが手を差し伸べる。
「お疲れ、湖宵くん」
それを掴んで立ち上がろうとして、そこで初めて自分の腰が抜けている事に気付いた俺は苦笑した。
「あはは、腰抜けちゃった……」
「む……そうか、それなら」
ロナウドはそんな俺に背を向けてしゃがむと両腕を斜めに広げた。……この体勢は、もしかしなくても。
「俺におぶさるといい、遠慮はいらないぞ!」
……正直恥ずかしい。が、歩けそうにないのも事実なのだ。俺が恐る恐るロナウドに腕を回して体重をかけると、ロナウドは俺の体を支え軽々と立ち上がった。
「うわ、」
おんぶされるなんて子供の頃以来だ。ふわふわして落ち着かないのにロナウドの背中は温かくて、土埃と汗の匂いがしてむずむずする。
一方のロナウドは全然気にしてないみたいで、避難所に向けて歩きながら他愛のない話をする。自然と話題はさっきの戦闘についてになり、ロナウドは自分のことでもないのになんだか嬉しそうな声音で俺を誉めてくれた。
「それにしてもさっきの湖宵くんは凄かったな!あんなに堂々と皆を奮い立たせて、思わず見入ってしまったぞ」
「あはは、必死だっただけだって」
ロナウドに誉められるのは嬉しいけど、言葉がストレートだから照れ臭い。なおもロナウドは言葉を続ける。
「ジャンヌダルクはあんな風だったのかもしれないな!」
「ジャンヌダルクは女だよ」
小さく苦笑する俺は、次の言葉で固まった。
「だがさっきの湖宵くんは綺麗だったぞ。きらきらして、まるで女神みたいだった!」
かっと頬が熱くなるのがわかる。ロナウドは何の他意もなくただ自分の感じた事実を述べているだけなんだろうけど、俺は変に意識してしまって、俺の顔がロナウドに見えなくて本当によかった。
「……もう、そういうのは女の子に言いなよ」
「ん?……あっ、すまない!男の子に言うことじゃなかったか、ええと、かっこよかったぞ!」
ロナウドが言い直しても顔の熱は引かなくて、避難所について俺の顔を見た彼は慌てて自分の分の毛布まで俺に巻き付けて寝かしつけてきた。遠慮しようと思ったけど疲れているのは事実で、俺はそのまま寝付いてしまったのだった。
* * *
夜になってから様子を見に来ると、湖宵くんはまだ眠っていた。俺が近付いても目覚める様子はなく、すうすうと寝息をたてる彼の枕元に座る。
湖宵くんの寝顔は年相応に幼くて、とてもあの化け物に立ち向かい皆を奮い立たせた勇者には見えない。……改めて見ると、睫毛も長いし肌も白くきめ細かくて、手足なんかも俺に比べれば華奢だし、女の子みたいだ。さっきだって背負った彼はとても軽くて、不安になるくらいだった。
本当なら大人に守られるべき子供なのに、今の状況が許さない。悪魔使いの力は貴重で、子供だからといって作戦に参加しないわけにはいかない。
なんだか堪らなくて、湖宵くんの髪に触れた。そっと前髪を額から除けると、眉を寄せむにゃむにゃと口を動かす彼。その頼りなさと、守ってやりたいという気持ちと、色々な感情が混ざって俺は彼の顔から目が逸らせなくなった。
指先が震える。
――気が付けば俺は、湖宵くんに顔を寄せ、その唇に口づけていた。
我に返った俺は慌てて湖宵くんから離れ、ばくばくと鳴っている心臓を静めようと深呼吸を繰り返した。
──俺は今何をした?
いくら今が非常事態で、正直溜まっていて、眠る湖宵くんがいとけなく愛らしいとしても、男の子相手にあんな……キスを、してしまうなんて。
子供にお休みのキスをするような気持ちなら良かった。だがさっきの俺は、かすかで曖昧ではあったが、湖宵くんに愛しさを覚えてしまっていたのだ。それだけではない。口付けてから我に返るまでの一瞬、俺は確かに劣情を覚えていた。
最低だ。こんなの、湖宵くんに不誠実極まりない。彼は俺を弟のように慕ってくれているというのに、彼は俺の道を正してくれた恩人だというのに、俺はこんな浅ましい感情を抱いてしまうなんて。
湖宵くんの寝顔を眺めているとまた邪な気持ちが頭をもたげそうで、またその柔らかな唇に触れたくなってしまいそうで、俺は頭をかきむしりながらその場を後にした。
* * *
何か優しいものが触れた気がした。
重たい瞼を持ち上げると、去ってゆく大きな背中が見えた。ロナウドだろうか。わざわざ様子を見に来てくれたのかな。だったら嬉しいな。
という事は、さっき触れたものはロナウドの手だろうか。……俺は、彼の大きな手が好きだ。手当て、という言葉があるけど、ロナウドの大きな手に触れられると本当に安心するし気持ちが楽になる。
疲労のせいで思考に箍がなく、寝返りを打って毛布に顔を埋めた俺は、じわじわと胸の内に広がる熱に気付いていた。これは今気付いちゃいけないものなのに。
ねえ、……多分、好きになっちゃったんだ。俺は、ロナウドのことを、多分……。
その気付きから目を背けるように、俺はゆるゆると眠りに落ちていった。
[newpage]
――目が覚めると、清潔なベッドの中にいた。
「……えっ」
目を擦っても景色は変わらない。部屋はきちんと整えられていて、あの瓦礫の陰とは比べ物にならない。この空気、俺は知っている。
「ジプス、か?」
慌てて体を探ると携帯電話が無い。頭が冷える。拉致?拘束?他の皆はどうなったんだ、無事なのか、俺はこれからどうなるのか。
不意にノックの音が響き、部屋に入ってきた人物を見て俺は唇を噛み絞り出すように呟いた。
「迫、さん」
迫さんは努めて無表情を装おうとしている顔で俺を見て、
「……ついてきてくれ」
有無を言わせぬ響きでそう言った。
……そして曲がりくねった廊下を進み、連れてこられた会議室でその少年は待ち構えていた。
「手荒な真似をした事は詫びよう」
相変わらず腹が立つくらい落ち着いた声で、峰津院は話を切り出した。
「だがもう時間が無かったものでな、君に最後の通告がある」
そして峰津院は真っ直ぐに俺を見て、はっきりとした口調で言い放った。
「私の元に下れ、神宮寺湖宵。君の才覚は野に放つには惜しい」
戸惑い黙りこむ俺を見下ろして峰津院が明かしたのは、にわかには信じがたい真実。この世界を観測する大いなる存在、ポラリスについて。
「これから世界は生まれ変わる。全てのセプテントリオンを下しポラリスへの謁見が叶えば、世界はより価値ある形に変貌する」
――実力だけに支配された世界。弱者は淘汰され、強者が正しく世界を導く世界。峰津院が語るそれは俺には到底受け入れられない世界だけど、何故だろう、峰津院はその理想への熱に浮かされ陶酔しているように見えた。
峰津院が信じる、世界のあるべき姿。自分は正しいと信じている怪物のような銀色の目が、初めて人間らしく見える。けれども俺は、峰津院の誘いに首を振った。
「ごめん、峰津院。俺が優秀だっていうならそれは皆と一緒にいるからで、峰津院の言う世界では無理なんだ」
俺の返答に峰津院は激昂するでも食い下がるでもなく、すぅと目を細めただけだった。
「……そうか。君はもう少し賢いと思っていたのだが、私の思い違いだったようだな。……迫」
峰津院に呼ばれた迫さんは、一歩進み出て俺に携帯電話を差し出してくる。見慣れた、俺の携帯電話。
「……返してくれるの?」
「いずれ私に下されるとはいえ、機会は平等であるべきだ。君は君の好きなようにしたまえ、愚かな選択を後悔しないように」
そしてまた迫さんに連れられて退室する直前、そっと振り返っても峰津院がどんな表情をしているかはわからなかった。
建物の外に出てようやく、俺はここがジプス名古屋支局だったということを知った。
謝罪しようとする迫さんに頭を振ってその場を立ち去ると、そう歩かないうちに俺は大きな声で名前を呼ばれた。
「湖宵くん!」
こちらに走り寄りながらトランシーバーに向かって何か言っているのは、ロナウドだ。俺の目の前まで来ると彼はなんだか泣き出しそうな、怒っているような顔で俺の両肩を掴んだ。
「怪我はないか?! 峰津院に何かされなかったか?! 朝起きたら君は居ないし、ジプスが何かを搬送するのを見たって奴がいるし、本当に俺たち心配して……!」
「大丈夫、心配かけてごめん。……それより大事な話がある」
ロナウドを見上げてそう言った俺の目を見て、彼は息を飲んだ。
「世界を……変える?」
呆然と呟いたロナウドに、俺は頷いてみせる。大地もやっぱり目を丸くして言葉も無い。
避難所の片隅で三人頭を突き合わせ、俺は峰津院から聞いた話を思い出しながら話し聞かせる。
「セプテントリオンは、この世界の管理者であるポラリスの理想から外れた世界を滅ぼすための尖兵で……セプテントリオンを倒してポラリスに認められる事が出来れば、自分が思う世界を実現出来るって」
荒唐無稽なその話を信じざるを得ないのは、悪魔やセプテントリオンが実際に沢山の人たちを殺しているこの現状を目の当たりにしているから。
この世界が大いなる存在に監視されてるとか、世界を作り直すだとか、笑えるくらい現実味が無いのに頭のどこかでは受け入れていた。受け入れざるをえなかった。
ロナウドと大地はいまいちピンとこないらしくて、目をぱちくりさせている。
「し、しかし、峰津院の言う事を信じるのか?」
「こんな嘘をつく意味が無いよ。……峰津院は、理想の世界を実現しようとしてるんだ」
――力がすべての指針になる世界を。
「そんな世界を実現させるわけにはいかない!そんな、弱者を切り捨てるような世界……!」
予想通り激昂したロナウドに、俺は控えめに同意する。確かに峰津院の主張は極端だ。
「うん、俺もそう思う。……でもだったら、どんな世界がいいんだろう」
「急に世界とか言われたってなあ」
そう、それだ。俺たちは今まで普通に暮らしてきた普通の日本人で、いきなり「世界」とか言われたって規模が大きすぎてピンとこない。なあ、と顔を見合せた俺たちをよそに、ロナウドは拳を握り声を張り上げた。
「どんな世界がいいかなんて決まっている!皆が平等に、助け合うことが出来る世界だ!」
その真意をはかりかねて黙って視線を送る俺に、ロナウドはなおも力強く言葉を続ける。
「今人々は疲れていて、希望を失っている。世界はもっと優しくなって、人々が助け合い支えあうことの出来る世界にならなければならないんだ!」
それは確かに、魅力的に聞こえる。荒みきった人々に必要なのは優しさだろうとも思う。……でも何かが引っ掛かる。ロナウドの目は理想にきらきらしていて、自信と確信に満ちていて、ああ。
峰津院と、似ている。
ロナウドは自分の理想が人々を幸せにすると信じている。峰津院は自分の理想が世界を美しくすると信じている。
二人ともが正しい、正しいからこそ何かが違うように思える。それが何かは、もやもやしてわからないけれど。
「でもさ、そんな急に皆変われるの?」
「ポラリスが本当に万能なら、人の意識だって変えられる筈だ!そうすれば、皆が助け合う世界が、」
「……それって、本当にいい事かな」
ぽつり、と大地が呟いた言葉に俺は顔を上げた。
「世界はポラリスのものでも、峰津院やロナウドのものでもなくて、俺たち皆のものだろ?ポラリスの力で無理矢理変えるのって、なんか……」
「だが、ポラリスの力でも借りなければ世界は変わらない!」
「そ、そうかなぁ」
……大地の言葉が、俺の中にさざ波をたてた。そうだ。それだ!
ロナウドに言い負かされそうになっている大地の肩に手を置いて、俺は声を張る。
「そんな事ない。大地、俺は大地の言う通りだと思う。世界を無理に変えたって、それはまた歪で誰かが割りを食う世界だ」
「なら、どうやって……!」
「……例えば、セプテントリオンが来る前まで世界を巻き戻せたら」
考えていた事を、試しに口にしてみる。
「巻き戻す?」
「そう。管野さんが言ってただろ、アカシックレコードのこと。あれにあらゆる事象が記録されてるなら、過去の事も記録されてる筈だ」
「……あっ!」
ポラリスはそのアカシックレコードに干渉出来るから、世界を消したり作ったり出来るんじゃないか、というのが菅野さんの見解だった。
世界のあらゆるものはデータにすぎなくて、街も建物も人間も悪魔も、データだからターミナルで体を分解し再構築することで移動したり、携帯電話を使って召還したり消したり出来る。そのデータ全てが記録されているのが、アカシックレコード。
「明石くれコード?」
「ロナウド、後で説明するから」
アカシックレコードには現在過去未来のあらゆるデータが記録されていて、ポラリスがそれに干渉出来るなら。
――俺たちが暮らしていたあの雑多で面倒ででも愛おしい日常を、復元することも可能なはずだ。
「で、でもさ、世界を巻き戻したって、またセプテントリオンが来るだけじゃ……」
俺の主張自体は理解したらしい大地が、でも不安げに瞬きをしながら呟く。
「そこを俺たちが、人類皆が頑張るんだ。ポラリスに文句言わせないくらい、世界を良い方向に変えていけばきっと……」
「……湖宵くん、水をさすようで悪いが人間ってものはそんなに良いようには、」
夢想家で優しくって理想主義のロナウドでさえ苦言を口にしてきて、でも俺はふるふるとかぶりを振る。
「そんなことない。俺は知ってる、普通に暮らしてた普通の人たちだって、自分の大事なひとたちの為に頑張れるし命だって賭けられるって。ロナウドだって見てたでしょ、皆が皆のヒーローなんだ!」
大地が、納得したように頷いた。
「湖宵……そうだよな、俺たちは滅ぼされて当然のダメな生き物なんかじゃないよな!」
頷き合ってから今度はロナウドの様子を窺うと、彼は目を細めて眩しいものでも見るかのように俺を見ていた。……その鳶色の目に以前とどこか違う光が宿っているような気がして、俺は僅かに首を傾げた。
「湖宵くん……君はどうして、そんなに……」
囁くように呟いてから、ロナウドは困ったように笑った。
「君たちに手を貸すよ、湖宵くん。……俺たち大人が君たちに教えられるなんてな」
差し伸べられた手を握る。一度ぎゅっと力を入れてから離れていくロナウドの手を見送ると、何か言いたげな口元が見えて。尋ねようと開きかけた口は、頑張ろうぜと肩を組んできた大地に遮られた。
――それから少しして、峰津院は世界変革の宣言をしたという。
何人かはその主張に賛同し峰津院の陣営へ入ったが、半分以上の人間が反発し袂を別ったらしい。俺はその場にいなかったから詳しくはわからないが、峰津院の宣言が終わってから何人かが俺や大地に連絡してきて、合流する面子も現れた。
……俺はといえば、ぼんやりと峰津院の言葉を思い出していた。「機会は平等であるべきだ」……峰津院は、ただ弱者を切り捨てるんじゃなくて、生まれやしがらみによらずその人の能力が正しく評価される世界が作りたいんだろうか?
だとすれば、交渉の余地はあるように思えた。迫さんが言っていたように、峰津院が単なる冷酷無慈悲な暴君でなく、十七歳の少年だというのなら。
ただ世界の創造権を奪い合い殺しあうんじゃなくて、もっと違う展開に出来るんじゃないかって、考えていた。
《第三話終》
セプテントリオン。星の名を冠する最終兵器、人類を滅ぼす侵略者。
ドゥべ、メラク、フェクダ、メグレズ、アリオト……既に五体が倒れ、奴らが本当に北斗七星になぞらえられているならあと二体ということになるが、あと二体を乗り越えた時俺たちはどうなるのだろう。
世界は、どうなってしまうんだろう。
「なんか、悪魔とは違う変なやつがいて……」
避難所を駆け回っている時に仲間の一人からそう報告を受けて、俺の脳裏をよぎったのはセプテントリオンの存在だった。
慌てて現場へ向かった俺は、物陰から遠巻きにそれを見張っている面々の横から目を凝らす。
「……ミザール?」
携帯に表示されている名からして、恐らくあれもドゥべやメグレズと同じくセプテントリオンなのだろう。
紫色の球体が連なった、どこか愛嬌のあるフォルム。アリオトの巨大さやメラクの禍々しさに比べれば脅威は感じられず、遠巻きに見ていた皆も少しずつ近付いてくる。
「なんやこいつ……俺らでも倒せるんじゃ……」
悪魔使いの一人が携帯を構え火炎魔法を叩き込む。ばちん、と呆気なく弾けたミザールは、その次の瞬間にはまた凝り固まり……一回り小さな二体のミザールがそこにいた。
「な、分裂した?!」
慌てて逃げ戻った彼をよそに、ミザールの体がぶるぶると震え始め、ぶわりと一回り大きく成長する。分裂する前と変わらない大きさだ。
「なんだよあれ……」
平和にふよふよとうろつく紫色の球体。だがそれは、徐々に数を増しているように見えた。
なんだか嫌な予感がして冷や汗の滲む手を握り締めていた俺は、不意に鳴った携帯に迫さんの名前が表示されているのを見て、人気の無い場所に移動してから通話ボタンを押した。
「……神宮寺、悪い報せだ。次のセプテントリオンが出現した」
「それって、ミザール……ですか」
「……そちらにも出たか。あれはどうやら攻撃されると分裂し、その分裂した個体もすぐ元の大きさに成長するばかりか、成熟した個体は攻撃されなくとも分裂するようだ」
……予感は確信に変わった。黙りこんだ俺を気遣ったのか、迫さんは息継ぎをして間を置いてから、深刻な、囁くような声で続ける。
「計算では、奴らが日本を埋め尽くすまでそう時間は無い。こちらでも対策は考えているが……取り敢えずは無闇に攻撃せず、静観するしかない状況だ」
「……そう、ですか」
ようやく絞り出せたのは気のきかない一言で、俺は迫さんと話しながらもこれからどうするか必死に考えていた。ジプスと違って俺たちは指揮系統もはっきりしないし、悪魔使いの質も低い。もしここへセプテントリオンの攻撃が向けば、甚大な被害が出るだろう事は想像に難くなかった。
「……気を付けてな、神宮寺」
気遣わしげな声を最後にいつの間にか通話は終了していて、俺はぼんやりと空を見上げた。まだ、空は青かった。
――そしてまた日が暮れる。ミザールの見張りに人手を割いているせいで若干手が足りず、夜営の準備に駆け回っていた俺のポケットで携帯が鳴った。……「迫真琴」の表示に慌てて通話ボタンを押した俺の耳に飛び込んできたのは、冷静さの下に焦燥を隠した声。
「神宮寺、そちらへ新田が行っていないか?」
「いえ、来てませんけど……何かあったんですか?」
迫さんに事情を――ミザールをなんとかする儀式に新田さんが必要で、その儀式には命の危険がある――聞いた俺は、すぐに新田さんを探しに行こうと走り出しかけたが、迷いが足を鈍らせる。
この避難所のすぐ近くにまでミザールはうろついていて、今後何が起こるかわからない。でも多分新田さんは東京にいて、探しに行くなら俺はここから離れなければならない。
――離れている間に何かあったら?
新田さんは大事な友人だ。でもここにいる皆だって大事だ。俺には人間に優先順位をつける事なんて出来なくて、でも、ここで迷い続けてたってなんにもならないのもわかってて。
「ん、どうした湖宵くん」
うろうろと同じ場所を歩き回る俺に、怪訝そうにロナウドが声をかけてきた。手には毛布を何枚か持っている、子供や老人に配るのだろう。
俺はロナウドに事情を説明した。焦りのせいで要領を得ない俺の話をロナウドは真剣に聞いてくれて、それから明るく笑った。
「よくわからないが、その子は湖宵くんの友達なんだろう?行ってくるといい!」
「でも、」
ロナウドは毛布を地面に置くと、迷う俺の頭を両手で包みわしわしと髪をかき混ぜた。それから少し屈んで俺の顔を覗き込む。
「君は俺の友人だ、君に何かあれば俺は絶対に助けに行く。君もそうだろう、友達が困っているから助けに行くんだろう?迷う必要は無い、ここは俺に任せろ!」
真っ直ぐに俺の目を見るロナウドの目は自信に満ちていて、俺を信じてくれてもいて、迷っていた俺の背を押してくれる。
「……うん、行ってくる」
「ああ!」
頑張れ、と投げられた言葉を背に俺は駆け出した。
ターミナルを使い東京へ向かった俺は、思いの外早く新田さんを見付けられた。
街外れに立ち尽くす新田さんは遠目にもわかるくらい顔色が悪くて、俺は少し迷いながら声をかけた。
「新田さん……?」
振り返った彼女がなんだか消えてしまいそうに見えて、俺は目を擦る。……縁起でもない。新田さんは消えたりなんかしない。
「神宮寺くん……」
新田さんは困ったように笑って、そして俺から目を逸らした。
「探しにきてくれたんだ、ありがとう。……駄目だね、私」
「いや、俺、事情聞いたけど……その、動揺するのも仕方ないよ」
頭をフル回転させて、新田さんを追い詰めないように、でも立ち直ってもらえるように言葉を選ぶ。
……新田さんに無理強いはしたくないけど、新田さんが決意してくれないと、あの無限に増殖する化け物に日本が覆いつくされるのも時間の問題だ。だからこうして彼女を慰めるのだって偽善で、下心しかなくて、それを新田さんも多分わかってる。
「……私がやらなきゃいけないの、わかってるんだけど。……怖くて」
俯く新田さんのスカートを握り締める手が震えているのに気付いて、俺は思わずその手を掴んだ。
「怖くていいんだ。俺だって死ぬのは嫌だし、怖い」
新田さんの手を握り締める。今この瞬間だけは、下心なんて無かった。
「今まで何回も死にかけて、怖くて、自分が死ぬより友達が死ぬ方がもっと怖くて」
言い募る言葉は新田さんを説得するというよりも、俺自身に言い聞かせるようで。
「でも俺たち、回避してきただろ?大地も、和久井も、死ななかった」
だから、新田さんも死なない。死んだりしない。死なせない!
「俺は皆を守らなきゃいけなくて、新田さんの隣にはいられないけど、俺も頑張るから!新田さんのこと信じて、絶対に諦めないで頑張るから!」
感情ばかりが昂って交渉もへったくれもない俺の言葉に、でも、新田さんは頷いてくれた。
「……ありがとう、神宮寺くん。私、頑張ってみる。やれるだけやらないと、きっと後悔するよね」
それから新田さんの視線が下がって、我に返った俺は慌てて手を離す。くすくすと笑った新田さんは、もう消えてしまいそうになんて見えなかった。
小走りに皆の元へ向かう新田さんの背を見送って一息ついた俺は、鳴り響いた携帯の呼び出し音にびくりと肩を跳ねさせる。通話ボタンを押した瞬間響く声。
「湖宵!まじヤバい!ミザールが動き出して、すごい数で!」
――血の気の引く音がした。
急いで名古屋に戻った俺の目に飛び込んできたのは、そこらじゅうをうろつくミザールたちだった。そいつらを振り切りながらあのイベントホールへ向かった俺は、その惨状に愕然とした。
ミザール、ミザール、ミザールの大群。それを必死で押し留める悪魔使いたち。皆傷だらけで、紫の津波が人々を押し流すのも時間の問題に思えた。
「……無理だ、こんなのどうしようもない」
「逃げた方がいいんじゃ……」
「逃げるったってどこに逃げるんだよ!」
悲鳴に近い叫び。皆に絶望が広がってゆく。逃げ出しかけて背後から攻撃を受け自滅したり、自棄になって滅茶苦茶に攻撃してどんどんミザールを分裂させてしまう人々。
駄目だ。このままじゃ駄目だ。皆がバラバラじゃあ駄目なんだ、一つにならなきゃ、でもどうやって?
「……諦めるな!」
気付けば俺は瓦礫の上にかけ上がって叫んでいた。
「諦めたらみんな死んじゃうんだぞ?!友達も家族も恋人も、こんなわけのわからない化け物に殺される!そんなの嫌だろ!俺は嫌だ!!!」
俺はただの高校生――しかも「元」がつく――で、指揮なんて当然した事がないし、何を言えば皆を奮い立たせられるかもわからない。
ただ必死で、必死で、俺は。
――英雄とは存在ではなく行為である。
「俺たちはヒーローだ、一人一人が誰かのヒーローだ!諦めるヒーローなんていない!だから……」
――英雄はおらず、英雄は英雄的行為によって英雄となる。
俺は、俺たちは、絶対に諦めない!
――私は英雄を祝ぐ。
俺の中で何かが灯る。沢山の目に見られながら、絶望の群れを前にしながら、……本当は折れそうで逃げ出したくて仕方ない心を隠しながら、俺は叫ぶ。
――私は英雄に剣を与える。
「立て!大事な誰かのために!立って戦うんだ、大事な誰かのところへ帰るために!」
――さあ、私の名を「思い出して」!
「英雄に剣を、ヴィヴィアン!」
……清浄な水の匂い。薄絹をふわりと翻し、美しくたおやかな乙女が舞い降りる。英雄に剣を与える湖の乙女は、柔らかく微笑むとそのかいなを宙へ差し伸べた。
一振りの剣が空より降りる。その剣から溢れた光が人々へ降り注ぎ、傷を癒し、絶望を癒し、心を奮い立たせる。
俺もそれに合わせて治癒魔法を発動させ、皆の傷を塞ぐ。夜を照らす月のような光が皆を包み込み、立ち尽くす皆の表情が変わっていく。
……いつの間にか俺の隣に立っていたロナウドが皆に指示を飛ばす。
「近くの奴と三、四人でチームを組め!一体に攻撃を集中させて、確実に潰していくんだ!」
絶望に凍り付き始めていた皆の目に炎が灯る。拳を握り締め、前を向いて。
「ここで押し止めれば、新田さんが、皆が頑張ってくれてるからきっと……!」
自分に言い聞かせるように俺が呟いたその時、
お ん。
何かの哭く声、ごう、と空が鳴る。
――竜だ。巨大な竜が、空を引き裂きながら真っ直ぐにミザールの群れへと食らい付いた。呆然と見守る俺たちの前で、竜がそのあぎとで紫を咀嚼し飲み込んでいく。
一匹残さず食らい尽くしてから、現れた時と同じように嵐を巻き起こし飛び去る竜。不意に携帯が鳴って放心したまま出ると、迫さんだった。
「神宮寺、そちらは無事か?今儀式が無事に終わったから、そちらにも龍脈の竜が向かうと思うが……」
「あ、うん、それっぽいのもう来た……、それより新田さんは?!」
慌てて電話口に食らい付く俺の耳に届いたのは、少しかすれた声。
「……神宮寺、くん?……私、新田です……けほ、ん、私なら大丈夫だよ」
弱々しくはあるけどそれは確かに新田さんの声で、俺は一気に脱力して座り込んだ。まだ辛そうな新田さんとは早々に会話を切り上げて、迫さんと一言二言現状確認をしてから携帯を切った俺に、隣に立っていたロナウドが手を差し伸べる。
「お疲れ、湖宵くん」
それを掴んで立ち上がろうとして、そこで初めて自分の腰が抜けている事に気付いた俺は苦笑した。
「あはは、腰抜けちゃった……」
「む……そうか、それなら」
ロナウドはそんな俺に背を向けてしゃがむと両腕を斜めに広げた。……この体勢は、もしかしなくても。
「俺におぶさるといい、遠慮はいらないぞ!」
……正直恥ずかしい。が、歩けそうにないのも事実なのだ。俺が恐る恐るロナウドに腕を回して体重をかけると、ロナウドは俺の体を支え軽々と立ち上がった。
「うわ、」
おんぶされるなんて子供の頃以来だ。ふわふわして落ち着かないのにロナウドの背中は温かくて、土埃と汗の匂いがしてむずむずする。
一方のロナウドは全然気にしてないみたいで、避難所に向けて歩きながら他愛のない話をする。自然と話題はさっきの戦闘についてになり、ロナウドは自分のことでもないのになんだか嬉しそうな声音で俺を誉めてくれた。
「それにしてもさっきの湖宵くんは凄かったな!あんなに堂々と皆を奮い立たせて、思わず見入ってしまったぞ」
「あはは、必死だっただけだって」
ロナウドに誉められるのは嬉しいけど、言葉がストレートだから照れ臭い。なおもロナウドは言葉を続ける。
「ジャンヌダルクはあんな風だったのかもしれないな!」
「ジャンヌダルクは女だよ」
小さく苦笑する俺は、次の言葉で固まった。
「だがさっきの湖宵くんは綺麗だったぞ。きらきらして、まるで女神みたいだった!」
かっと頬が熱くなるのがわかる。ロナウドは何の他意もなくただ自分の感じた事実を述べているだけなんだろうけど、俺は変に意識してしまって、俺の顔がロナウドに見えなくて本当によかった。
「……もう、そういうのは女の子に言いなよ」
「ん?……あっ、すまない!男の子に言うことじゃなかったか、ええと、かっこよかったぞ!」
ロナウドが言い直しても顔の熱は引かなくて、避難所について俺の顔を見た彼は慌てて自分の分の毛布まで俺に巻き付けて寝かしつけてきた。遠慮しようと思ったけど疲れているのは事実で、俺はそのまま寝付いてしまったのだった。
* * *
夜になってから様子を見に来ると、湖宵くんはまだ眠っていた。俺が近付いても目覚める様子はなく、すうすうと寝息をたてる彼の枕元に座る。
湖宵くんの寝顔は年相応に幼くて、とてもあの化け物に立ち向かい皆を奮い立たせた勇者には見えない。……改めて見ると、睫毛も長いし肌も白くきめ細かくて、手足なんかも俺に比べれば華奢だし、女の子みたいだ。さっきだって背負った彼はとても軽くて、不安になるくらいだった。
本当なら大人に守られるべき子供なのに、今の状況が許さない。悪魔使いの力は貴重で、子供だからといって作戦に参加しないわけにはいかない。
なんだか堪らなくて、湖宵くんの髪に触れた。そっと前髪を額から除けると、眉を寄せむにゃむにゃと口を動かす彼。その頼りなさと、守ってやりたいという気持ちと、色々な感情が混ざって俺は彼の顔から目が逸らせなくなった。
指先が震える。
――気が付けば俺は、湖宵くんに顔を寄せ、その唇に口づけていた。
我に返った俺は慌てて湖宵くんから離れ、ばくばくと鳴っている心臓を静めようと深呼吸を繰り返した。
──俺は今何をした?
いくら今が非常事態で、正直溜まっていて、眠る湖宵くんがいとけなく愛らしいとしても、男の子相手にあんな……キスを、してしまうなんて。
子供にお休みのキスをするような気持ちなら良かった。だがさっきの俺は、かすかで曖昧ではあったが、湖宵くんに愛しさを覚えてしまっていたのだ。それだけではない。口付けてから我に返るまでの一瞬、俺は確かに劣情を覚えていた。
最低だ。こんなの、湖宵くんに不誠実極まりない。彼は俺を弟のように慕ってくれているというのに、彼は俺の道を正してくれた恩人だというのに、俺はこんな浅ましい感情を抱いてしまうなんて。
湖宵くんの寝顔を眺めているとまた邪な気持ちが頭をもたげそうで、またその柔らかな唇に触れたくなってしまいそうで、俺は頭をかきむしりながらその場を後にした。
* * *
何か優しいものが触れた気がした。
重たい瞼を持ち上げると、去ってゆく大きな背中が見えた。ロナウドだろうか。わざわざ様子を見に来てくれたのかな。だったら嬉しいな。
という事は、さっき触れたものはロナウドの手だろうか。……俺は、彼の大きな手が好きだ。手当て、という言葉があるけど、ロナウドの大きな手に触れられると本当に安心するし気持ちが楽になる。
疲労のせいで思考に箍がなく、寝返りを打って毛布に顔を埋めた俺は、じわじわと胸の内に広がる熱に気付いていた。これは今気付いちゃいけないものなのに。
ねえ、……多分、好きになっちゃったんだ。俺は、ロナウドのことを、多分……。
その気付きから目を背けるように、俺はゆるゆると眠りに落ちていった。
[newpage]
――目が覚めると、清潔なベッドの中にいた。
「……えっ」
目を擦っても景色は変わらない。部屋はきちんと整えられていて、あの瓦礫の陰とは比べ物にならない。この空気、俺は知っている。
「ジプス、か?」
慌てて体を探ると携帯電話が無い。頭が冷える。拉致?拘束?他の皆はどうなったんだ、無事なのか、俺はこれからどうなるのか。
不意にノックの音が響き、部屋に入ってきた人物を見て俺は唇を噛み絞り出すように呟いた。
「迫、さん」
迫さんは努めて無表情を装おうとしている顔で俺を見て、
「……ついてきてくれ」
有無を言わせぬ響きでそう言った。
……そして曲がりくねった廊下を進み、連れてこられた会議室でその少年は待ち構えていた。
「手荒な真似をした事は詫びよう」
相変わらず腹が立つくらい落ち着いた声で、峰津院は話を切り出した。
「だがもう時間が無かったものでな、君に最後の通告がある」
そして峰津院は真っ直ぐに俺を見て、はっきりとした口調で言い放った。
「私の元に下れ、神宮寺湖宵。君の才覚は野に放つには惜しい」
戸惑い黙りこむ俺を見下ろして峰津院が明かしたのは、にわかには信じがたい真実。この世界を観測する大いなる存在、ポラリスについて。
「これから世界は生まれ変わる。全てのセプテントリオンを下しポラリスへの謁見が叶えば、世界はより価値ある形に変貌する」
――実力だけに支配された世界。弱者は淘汰され、強者が正しく世界を導く世界。峰津院が語るそれは俺には到底受け入れられない世界だけど、何故だろう、峰津院はその理想への熱に浮かされ陶酔しているように見えた。
峰津院が信じる、世界のあるべき姿。自分は正しいと信じている怪物のような銀色の目が、初めて人間らしく見える。けれども俺は、峰津院の誘いに首を振った。
「ごめん、峰津院。俺が優秀だっていうならそれは皆と一緒にいるからで、峰津院の言う世界では無理なんだ」
俺の返答に峰津院は激昂するでも食い下がるでもなく、すぅと目を細めただけだった。
「……そうか。君はもう少し賢いと思っていたのだが、私の思い違いだったようだな。……迫」
峰津院に呼ばれた迫さんは、一歩進み出て俺に携帯電話を差し出してくる。見慣れた、俺の携帯電話。
「……返してくれるの?」
「いずれ私に下されるとはいえ、機会は平等であるべきだ。君は君の好きなようにしたまえ、愚かな選択を後悔しないように」
そしてまた迫さんに連れられて退室する直前、そっと振り返っても峰津院がどんな表情をしているかはわからなかった。
建物の外に出てようやく、俺はここがジプス名古屋支局だったということを知った。
謝罪しようとする迫さんに頭を振ってその場を立ち去ると、そう歩かないうちに俺は大きな声で名前を呼ばれた。
「湖宵くん!」
こちらに走り寄りながらトランシーバーに向かって何か言っているのは、ロナウドだ。俺の目の前まで来ると彼はなんだか泣き出しそうな、怒っているような顔で俺の両肩を掴んだ。
「怪我はないか?! 峰津院に何かされなかったか?! 朝起きたら君は居ないし、ジプスが何かを搬送するのを見たって奴がいるし、本当に俺たち心配して……!」
「大丈夫、心配かけてごめん。……それより大事な話がある」
ロナウドを見上げてそう言った俺の目を見て、彼は息を飲んだ。
「世界を……変える?」
呆然と呟いたロナウドに、俺は頷いてみせる。大地もやっぱり目を丸くして言葉も無い。
避難所の片隅で三人頭を突き合わせ、俺は峰津院から聞いた話を思い出しながら話し聞かせる。
「セプテントリオンは、この世界の管理者であるポラリスの理想から外れた世界を滅ぼすための尖兵で……セプテントリオンを倒してポラリスに認められる事が出来れば、自分が思う世界を実現出来るって」
荒唐無稽なその話を信じざるを得ないのは、悪魔やセプテントリオンが実際に沢山の人たちを殺しているこの現状を目の当たりにしているから。
この世界が大いなる存在に監視されてるとか、世界を作り直すだとか、笑えるくらい現実味が無いのに頭のどこかでは受け入れていた。受け入れざるをえなかった。
ロナウドと大地はいまいちピンとこないらしくて、目をぱちくりさせている。
「し、しかし、峰津院の言う事を信じるのか?」
「こんな嘘をつく意味が無いよ。……峰津院は、理想の世界を実現しようとしてるんだ」
――力がすべての指針になる世界を。
「そんな世界を実現させるわけにはいかない!そんな、弱者を切り捨てるような世界……!」
予想通り激昂したロナウドに、俺は控えめに同意する。確かに峰津院の主張は極端だ。
「うん、俺もそう思う。……でもだったら、どんな世界がいいんだろう」
「急に世界とか言われたってなあ」
そう、それだ。俺たちは今まで普通に暮らしてきた普通の日本人で、いきなり「世界」とか言われたって規模が大きすぎてピンとこない。なあ、と顔を見合せた俺たちをよそに、ロナウドは拳を握り声を張り上げた。
「どんな世界がいいかなんて決まっている!皆が平等に、助け合うことが出来る世界だ!」
その真意をはかりかねて黙って視線を送る俺に、ロナウドはなおも力強く言葉を続ける。
「今人々は疲れていて、希望を失っている。世界はもっと優しくなって、人々が助け合い支えあうことの出来る世界にならなければならないんだ!」
それは確かに、魅力的に聞こえる。荒みきった人々に必要なのは優しさだろうとも思う。……でも何かが引っ掛かる。ロナウドの目は理想にきらきらしていて、自信と確信に満ちていて、ああ。
峰津院と、似ている。
ロナウドは自分の理想が人々を幸せにすると信じている。峰津院は自分の理想が世界を美しくすると信じている。
二人ともが正しい、正しいからこそ何かが違うように思える。それが何かは、もやもやしてわからないけれど。
「でもさ、そんな急に皆変われるの?」
「ポラリスが本当に万能なら、人の意識だって変えられる筈だ!そうすれば、皆が助け合う世界が、」
「……それって、本当にいい事かな」
ぽつり、と大地が呟いた言葉に俺は顔を上げた。
「世界はポラリスのものでも、峰津院やロナウドのものでもなくて、俺たち皆のものだろ?ポラリスの力で無理矢理変えるのって、なんか……」
「だが、ポラリスの力でも借りなければ世界は変わらない!」
「そ、そうかなぁ」
……大地の言葉が、俺の中にさざ波をたてた。そうだ。それだ!
ロナウドに言い負かされそうになっている大地の肩に手を置いて、俺は声を張る。
「そんな事ない。大地、俺は大地の言う通りだと思う。世界を無理に変えたって、それはまた歪で誰かが割りを食う世界だ」
「なら、どうやって……!」
「……例えば、セプテントリオンが来る前まで世界を巻き戻せたら」
考えていた事を、試しに口にしてみる。
「巻き戻す?」
「そう。管野さんが言ってただろ、アカシックレコードのこと。あれにあらゆる事象が記録されてるなら、過去の事も記録されてる筈だ」
「……あっ!」
ポラリスはそのアカシックレコードに干渉出来るから、世界を消したり作ったり出来るんじゃないか、というのが菅野さんの見解だった。
世界のあらゆるものはデータにすぎなくて、街も建物も人間も悪魔も、データだからターミナルで体を分解し再構築することで移動したり、携帯電話を使って召還したり消したり出来る。そのデータ全てが記録されているのが、アカシックレコード。
「明石くれコード?」
「ロナウド、後で説明するから」
アカシックレコードには現在過去未来のあらゆるデータが記録されていて、ポラリスがそれに干渉出来るなら。
――俺たちが暮らしていたあの雑多で面倒ででも愛おしい日常を、復元することも可能なはずだ。
「で、でもさ、世界を巻き戻したって、またセプテントリオンが来るだけじゃ……」
俺の主張自体は理解したらしい大地が、でも不安げに瞬きをしながら呟く。
「そこを俺たちが、人類皆が頑張るんだ。ポラリスに文句言わせないくらい、世界を良い方向に変えていけばきっと……」
「……湖宵くん、水をさすようで悪いが人間ってものはそんなに良いようには、」
夢想家で優しくって理想主義のロナウドでさえ苦言を口にしてきて、でも俺はふるふるとかぶりを振る。
「そんなことない。俺は知ってる、普通に暮らしてた普通の人たちだって、自分の大事なひとたちの為に頑張れるし命だって賭けられるって。ロナウドだって見てたでしょ、皆が皆のヒーローなんだ!」
大地が、納得したように頷いた。
「湖宵……そうだよな、俺たちは滅ぼされて当然のダメな生き物なんかじゃないよな!」
頷き合ってから今度はロナウドの様子を窺うと、彼は目を細めて眩しいものでも見るかのように俺を見ていた。……その鳶色の目に以前とどこか違う光が宿っているような気がして、俺は僅かに首を傾げた。
「湖宵くん……君はどうして、そんなに……」
囁くように呟いてから、ロナウドは困ったように笑った。
「君たちに手を貸すよ、湖宵くん。……俺たち大人が君たちに教えられるなんてな」
差し伸べられた手を握る。一度ぎゅっと力を入れてから離れていくロナウドの手を見送ると、何か言いたげな口元が見えて。尋ねようと開きかけた口は、頑張ろうぜと肩を組んできた大地に遮られた。
――それから少しして、峰津院は世界変革の宣言をしたという。
何人かはその主張に賛同し峰津院の陣営へ入ったが、半分以上の人間が反発し袂を別ったらしい。俺はその場にいなかったから詳しくはわからないが、峰津院の宣言が終わってから何人かが俺や大地に連絡してきて、合流する面子も現れた。
……俺はといえば、ぼんやりと峰津院の言葉を思い出していた。「機会は平等であるべきだ」……峰津院は、ただ弱者を切り捨てるんじゃなくて、生まれやしがらみによらずその人の能力が正しく評価される世界が作りたいんだろうか?
だとすれば、交渉の余地はあるように思えた。迫さんが言っていたように、峰津院が単なる冷酷無慈悲な暴君でなく、十七歳の少年だというのなら。
ただ世界の創造権を奪い合い殺しあうんじゃなくて、もっと違う展開に出来るんじゃないかって、考えていた。
《第三話終》
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